あんなかどうぶつ病院 千葉県流山市前平井 04-7179-5712 流山セントラルパーク駅 動物病院 ペットホテル

あんなかどうぶつ病院
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2025年10月15日 [日常あれこれ]

40歳になり今更挑戦しようと思ってること。

こんにちは、獣医師の大野です。

先日めでたく40歳を迎え、介護保険料の支払いも始まりました。
私が何歳まで生きるかはわかりませんが、
私の4人の祖父母たちは平均すると86.75歳で亡くなっています。
(祖母だけで言えば平均95.5歳です。女性は長生きですね)

私がその年齢になるころにはさらに医療は発展しているでしょうから
寿命は延びているかもしれませんが、
でも祖父母が【高齢者】として君臨していた頃よりも
働き続けないと生活できない時代になってきています。物価高だし。
60歳

↑約20年後。多分こんなに髪の毛残ってないと思う・・・

ストレスが多い分寿命は短くなるかもしれない、
となると私は80代ぐらいで一生を終えるのではと予想しています。
つまり、半分の折り返し地点に突入したかもということです。
折り返し


40歳は【不惑】の歳です。
2500年ほど前に孔子という偉い人が説きました。
孔子

↑爪長っ!

不惑…惑わず…

【 物の考え方や判断において、迷いや悩みがなくなる状態】のこと。
現代と違って2500年前なんて今よりずっと寿命も短く、
40歳と言えばシニアに分類されていてもおかしくない時代でした。
(当時の庶民の平均寿命は30〜40代、知識人や富裕層はそれ以上で、
孔子は73歳まで生きたそうです。金持ってるっていいですね…。
そりゃ惑わないでしょうよ。)


「生まれて40年も経つんだから、さすがに世の中の仕組みや道理が
分かってくる頃なので、もう今更惑うことはない」
ということだと。

子供の頃に想像した40歳の自分は、全く違う人間になっている気がしていましたが、
当たり前だけどそんなことは全然ありません。
頭で考えてることはあまり変わらないですし、
人間の根本的なところってたぶん物心ついた頃から変わらない。

特に成人するまでに出来上がった人間性は、
よほどのことがない限り変わらない


ということを最近改めて感じています。
子供の頃は柔軟なので周りの環境次第で変わったりすることもありますが、
大人になると「取り繕う」という技を身に着けるだけで根本は変わりません
優しい人は外側がどうなっても根っこの部分の優しさは残り、
自分のことしか考えない人はどう取り繕っても自己中のままです。
ある意味それは『惑ってない』ということかもしれません。

孔子の言葉の解釈は様々ありますが、私は

20歳まではまだ変わる余地のある柔らかい状態、
20歳から40歳まではその気質をもって社会で生きて行くことに
不都合さを感じたり迷いを感じたりする状態、
40歳以降はそれでも変えられない自分の気質と、腹を括って付き合っていく状態

であると考えています。

ただ近年は、この孔子の「四十にして惑わず」の言葉には別の解釈が存在します。
孔子の言った【不惑】とは、本来この字ではなく【不或】であったとのこと。
こうなると【惑わず】ではなく【区切らず】という意味になるらしい。
「四十にして区切らず」となった解釈は、
「固定観念に捕らわれずもっといろんなことをするべきではないのか」
ということのようです。

うん、これはこれでいいかもしれない。前向き!
これまで自分が「絶対」と思っていたことを覆してみる…
破壊

覆しても良いこととダメなことがあるとは思いますが、
最近はそれほどダメでないことは覆してみるのも大切な気がしています。

実は私には自分の長年の考えを、他人によって大きく覆された経験が2回ほどあります。
1回目は社会人1年目の時に当時の勤め先にいた「安中篤史先生」という先輩獣医師によって。
2回目は約5年前、勤めている動物病院の院長の「安中篤史先生」によって。
2回とも同じ人物な上に、皆さんもよくご存じなはずです。


私は物心がつくのが早い子供でした。
小さい頃から本を読んだり考え事をしたりするのは好きな方で、
「時間って誰が作ったんだろう」とか「死んだらどうなるんだろう」とか
「炎のあのゆらゆらした部分って、何なんだろう」とか
「私が思っている赤色と、他の人が思っている赤色は全く違うものかもしれない」とか、
悩んでも仕方のない悩みが次々と頭の中に出てきて、
自分の思考をストップできないことに苦しむ変な子供でした。
悩む


そんな中で私の心を広く占拠する考えが一つありました。

【自分は何故生きているのか。こんな大したことない人間で申し訳ない】

こんなことをまだ10歳にも満たない子供が考えているんですから、
やはりどこかおかしかったんだと思います。
慢性的な不眠症で精神を病んでいたのかもしれません。

「大したことない人間って、君まだ年齢一桁だからね?
そりゃあ大したことないでしょうよ。
人類のほとんどは大したことないんだから気にすんな」


と、今子供の頃の自分が目の前にいたら言ってあげたいし、
とことん話し合ってみたいと思うのですが、
当時の自分にはこの悩みをわかってくれる人はおらず、
大抵鼻で笑われるか、変な子って思われるかのどちらかでした。

誰かとこのことについて激しく議論を重ねるわけでもないので、
この考えは否定されることもなく私の心の中にあり続けました。
そして徐々に発展を遂げ、毎朝起きると、

「ああ、今日も目が覚めたんだ・・・
こんなどうしようもない人間が生きててすみません」

土下座

と思うようになりました。そしてそこから更に進化して

「きっと誰しもみな、口には出さないだけで
私と同じような感情を抱えたまま生きているんだ」


と思うようになりました。

私はそれなりに優等生でしたしいじめの標的にされるような子でもありませんでした。
それでもこんなに罪悪感を抱えて生きているのだから、

いつも先生に怒られているA君も、周りからからかいの対象にされがちなB君も、
多くの友人に囲まれ楽しそうに笑ってるCちゃんだって、
本当はみんな私と同じように苦しい思いをしながら生きているんだ。

そんなことを考えるようになり、この考えが私の生活基盤の根底を巣食うようになりました。
この考えを持っていること自体、とても苦しいことでしたが、
みんな苦しい思いをしているのは同じなので仕方ない。
私自身、自分の苦しみをどうすることもできないし、
当然他の人たちの苦しみをどうしてあげることもできません。
けど、それならせめて優しくしよう。
私は存在価値がないんだからそれぐらいのことをしなくては…
と心の底から本気で思っていましたし、
自分が多少無理をしてでも他人に親切にしなくてはと必死に実行していました。



時が経ち、私は獣医師国家試験に合格して動物病院に就職しました。
そこで働き始めた時、共に働くあるスタッフに対して違和感を覚えました。

彼女は根は真面目で仕事に一生懸命でしたが、
「いやいや、私なんて…」とよく口にしていたので、
初めの頃は謙虚な人なのだと思っていました。
まだ若いし、周りはベテランが多かったのでその気持ちはよくわかるのですが、
一見謙虚に見える発言をしつつも、行動が伴っていないな と思うことが徐々に増えていきました。

間違いを指摘されても「私のせいじゃない」「〇〇さんがこう言ったから」が多く、
叱られても「あ〜はいはいそうですか、すんませ〜ん」とわかりやすく不貞腐れる…。

『私なんて…』って本気で思っているなら、仮に間違いを指摘されても
「そうですよね。やっぱり私の頭で考えたことなんて、正解なわけないですよね。
いつもいつも至らず申し訳ないです…」
みたいに思ったりするんじゃないだろうか。

…何かがおかしい…。私が20年以上信じてきた
【人間誰しも罪悪感を抱えて生きている】 という前提で考えれば、
あんな風な態度がとれるはずがない…。

しばらく悩んだ後、当時一緒に働いていた
安中先生という獣医さんにこの件について相談しました。

「あの娘、なにかおかしい気がする…。
よく
『私なんて…』とか言ってはいるけど、
発言と行動に一貫性がありません。
思考と行動がバラバラになってしまっているんでしょうか。
どうも掴みどころがありません」


その時、某安中先生は衝撃的なことを言いました。

「そもそも、【人間誰しも罪悪感を抱えて生きている】という前提条件が違います。
そんなこと誰も思っていませんよ。
たとえ何の取り柄もないような人だったとしても、みんな自信満々で生きてますよ。
彼女だって本心では
『私なんて』とか これっぽっちも思ってないと思いますよ」
大丈夫


え…そうなの…?そんなわけなくない?
その時は安中先生が何を言っているのかすぐには理解できませんでした。
自分が20年以上信じてきたことが間違っているなんて考えたこともなかったので、
理解するのにはとても時間がかかり、知恵熱が出るくらいの衝撃でした。
知恵熱

でも確かに考えてみると彼の言うことの方が正しいかもしれない。
彼が言っていることが正しいと考えたほうが、しっくりくるかも…。

自分はとても価値がある存在であると信じて疑わないからこそ
自分が批判されることが我慢ならない
自分がミスをしたり出来ないことがあるのは、
手取り足取り教えてくれない周りが悪い
この私のミスを指摘してくるなんてありえない、ということなのか…
たしかに冷静に考えてみれば、気に入らないことがあるとモロに態度に出すなんて、
【自信の塊】じゃないとできない所業です。
自信満々

1週間考えた後、安中先生の言っていることが正しいと気づいた私は、
わざわざ彼に「私が間違っていました」と言いに行った記憶があります。
院長はどうやら覚えていないようですが・・・

そうか…みんな罪悪感とか抱えてなかったんだ…。
みんな自信を持って生きてるんだ…。

これが私の考えを変える1つ目の衝撃でした。



2つ目の衝撃があったのはそれから5年ほどたったころでした。
1つ目の衝撃以降、私は「皆が罪悪感を抱えて生きている」という考えは放棄しました。
例の彼女に限らず、日常生活で出会う人で
そのように思っていそうな人は確かにほとんど居なかったからです。

ただそうなると、また合点のいかないことがありました。
これまでは誰かが何か自分勝手なふるまいをしたとしても、

「いつも罪悪感の中で生きているのだからきっとストレスが溜まっているんだ。
やりきれない気持ちを吐き出すところがないんだろう。
きっともう心がいっぱいいっぱいになって、半ば自暴自棄で
こういう行動に出てしまっている
んだ」

と思ってやり過ごしてきたのですが、罪悪感の中で生きていないのであれば
私が想定していたストレスの大半は実体のないものとなります。
だとすれば、何故そんな振る舞いをしているんだろう…と。

そして「一体何を考えてるの?」が私の口癖になりました。


何故自分の犬がした排泄物をそのままにして帰り、注意されると逆ギレするのか、

何故予約して待っている人たちがたくさんいるのに、
緊急性の低い自分の動物を先に診察しろと無理難題を言うのか、

何故「この子はペットではなくて大切な家族です」という割に、
お尻が古いウンコまみれのまま放置されているのか、

何故動物好きを主張しながらずっとケージに入れっぱなしの状態を可哀そうに思わないのか、

何故「数千円の治療のお金をかけられない」と可哀そうな状態にしておきながら
数十万出すことは躊躇わずに新しい子犬や子猫を購入するのか。

何故体調の悪い動物を数週間放置していたのに、
すぐに診察が出来ずに別の時間を提案すると
「放っておいて大丈夫なんですか?」と責任を押し付けてくるのか。

挙げればきりがない!
腹が立つのももちろんありますが、単純にどういう思考でそんな行動になるのか
想像がつかなかったし、理由が知りたいと思いました。

すると、1回目の時と同じ、
今や院長となった某安中先生よりこんなことを言われました。

「大野先生はいつも『何考えてんの?』って言いますけど、
人間てそんなに何も考えてないですよ」

院長は恐らく、
「そういう人たちは悪意があってやってるわけではない」
ということが言いたいんだと思いますが…

いやいやそれは…逆に失礼でしょ!
失礼な!


悪意があってやってる方がまだわかる。嫌いだから困らせたないなら納得できる。
でも何も考えてないなんてことあるわけないじゃないですか。

例えば朝起きて顔を洗ってる時に「何考えてる?」って言われたら
何も考えてない可能性は全然あります。
何となくルーティンでやってることに頭を使ってない可能性はありますし、
感情も伴ってませんから。

でも、先ほど挙げた例で言えば、どれも感情が乗っかっていて
無意識にするようなことではないですし、
「先に診察してって言ったら待合で待ってる他の人たちに
『やばい人がいる…』って思われちゃうかな〜」とか、

「お尻にウンコがついてたら気持ち悪いだろうな〜」とか、

そういうことを何も考えてないなんてことあるはずがない!
これは明らかに院長が間違っている!と確信したので、

「お言葉ですが、それはその人たちに流石に失礼だと思いますよ」
と伝えました。

が、院長曰く、
『お尻にウンコがついてるな〜。ふ〜ん』で終わる人もいますよ。
人がすること全てに意味を求めてもダメです。
何も考えてない人は実はとっても多いし、だから理由なんてないんです」

とのこと。

ダメだ、これは少し落ち着こう…頭から煙が出そうだ…

1回目の時もそうですが、最初はいつも
「院長の言ってることはおかしい!」って思うんです。だけど…

よ〜く考えると確かにその通りかもしれない。普通に考えたら

「大切な家族だって主張したのに、
ウンコまみれのまま連れて行ったら矛盾してるな」


って気づくはずなんですけど、
そもそも『大切な家族』という発言自体本当にそう思ってるわけではなく、
その場のノリや、そう言ってる自分が好きなだけで言ってるのかもしれない。
本当にそう思ってるわけではないからこそ、
ウンコまみれを『可哀そう』とすら思っておらず
「うわ!きったねぇ!」で思考が終わってるのかもしれない。
考えて発言したわけではないから
自分が『大切な家族』と発言したことを
覚えていない
のかもしれない。
覚えていないから矛盾していることに気づいていないのかもしれない…

何も考えない人間がいるということ自体がとてもショックでしたが、
今回もまた院長に
「例の件、色々考えましたがやっぱり私が間違っていました。
未だに信じられない気持ちはあるけど、あなたの言うことの方が正しいと思う。
失礼なことを言う
【人でなし】だと思ってすみませんでした。
でも・・・
いまだに信じられない!!!
と謝り(?)に行きました。

理解はできるけど納得はできないというか、
そんな人がこれだけの数いるなんて思いたくない気持ちがあるので、
いまだに「何考えてんの!?」は口癖です。
でも「あ、そうだよね、何も考えてないんだもんね」と付け加えるようになりました。

このように私の人生での常識を2回も覆してきた院長、流石です。
でも実は、院長を介さずとも私は最近もう一つ
自分の中の常識を覆す説にたどり着きました。それは…

人に大事にされた人が、
他の人を大事にできるわけではない


考えてみればもっともな話なんですが、私はこれまで
「優しさって巡り巡るものだ」ときれいごとで考えていたようです。

誰からも優しくされないと他人には優しくできないけど、
人から優しくされた人は他の人に優しくできるようになる
な〜んて一見ステキじゃないですか。

人間界ではよく「虐待の連鎖」みたいなものを見聞きします。
自分が虐待されて育った人は、自分の子供を虐待してしまう…みたいな。
全員がそういうわけではないでしょうが、どうしても加害者になる確率が高くなる
ということで、実際そうかもしれません。
でもだとすれば逆パターンの
「大事にされました連鎖」みたいなのが存在すると思いませんか?

でも!これはそうではないことが結構あります。
少なくとも私の周りではそうでないパターンの方が多い…


優しくされた
   →私は特別な存在なんだ
       →さあ、皆の者、もっと私に優しくしたまえ!
となる場合もあるし、

先ほどの【人は何も考えてない理論】で言えば

優しくされた
    → わ〜い!
以上!

って次にバトンを繋がないこともあるわけです。

私はこれまでそういう人に対して腹立たしさを感じていました。
大事にされた分、誰よりも優しくなれとまではいわないし、
見返りを求めてるわけでもありません。
世話になった本人に返さなくても他の誰にでも良いから、
最低限レベルで良いから他人のことを考えてくれればそれでいい。

でもそれは所詮キレイゴト。優しくすることも習慣化されてなければできないようです。

40歳を迎えた今、もう腹を立てるのにも疲れました。
私が腹を立てたところで、その人たちは何も変わらないし、
たぶん私が言っている意味も伝わりません。
腹を立てるだけエネルギーの無駄です。
そもそも相手も大人だともう変更は効かないでしょう。
何も考えない人は最強ですから。

なので、40歳になった良い機会ですから、
私が考え方を変えることにしました。


もうそういう人に深く関わるのはやめよう、と。


これ、実際は多くの人がやっていることだと思うんです。
違和感感じながら付き合ったりせずに、自然な感じで距離を保っているんです。

でも私は前半で述べた「多少自分が無理してでも他人に親切にしなくては」という
あの1つ目の思い込みをそのまま引きずって生活していました。

でも不公平感から気分が沈んだり、悶々と考えて眠れなくなったりしてまで、
自分のメンタルを犠牲にしてまで守るほどの人か…と考えたら、
その人が誰かに何かしてあげるわけではないのに、これは完全に無駄な努力です。

そもそも私は仏でも何でもないただの短気な40歳なので、
たいして多くない自分の優しさをそんな人に与えても仕方ありません。
だったらそこを節約して他の人に優しくした方が世の中のためになりますし、
自分自身にその優しさを使ったっていいんです。
みんながやってることだから、私がやってダメってことはないはず!

孔子の新解釈の【不或】は、「固定観念に捕らわれず」という意味です。
変な人でも何とか理解してうまく付き合っていこうという私の固定概念を捨てることは、
40歳以降の私の人生にきっと新しい風を吹かすと信じてみることにしました。
これまで好きだろうが嫌いだろうが関わりを避けたりせずに来た人生なので、
どこまで変われるかわからないですが、もし変わることが出来れば
40代を心身ともに健康に過ごせるのではないかと思っています。

そして、大野流の新解釈の不惑(不或)

「ふわふわするぐらい心に余裕を持って、わくわくな毎日を過ごそう」です。
↑うまいこと言えた♪
最近ストレスフルでしたが、これで眠れるようになるといいな〜と思います!

◇◆おまけ◆◇
40代のうちにしておいた方が良いことって何だろうと思い、
色々探してみたのですが・・・
多くの先輩方の助言で共通していたのが
「40代のうちにお金を貯めましょう!」です。

そりゃあ貯められるならそうしたいですよ。
昔は贅沢さえしなければ貯められましたが、
今は普通に生活してたら手元に残らない!

無駄なところにお金はかけられないけど、この時期欲しいのが
昨年

花の苗。昨年は↑これぐらいに成長。テンション上がります。

現在当院の前の植木鉢は
現状

これ以上ないほどの地味さ。 毎年この時期はビオラの苗やチューリップの球根を植えるんですが
何もかもが高い!

でもこの場所のお花を楽しみにしている通行人が実は結構います。
ここの前をお散歩している保育園児とか、
体調悪くてお出かけ出来ない代わりにここで写真を撮っていく犬たちとか
そういう子たちもいるのでこのままというわけにはいきません。

なので今年はこうしてみました。
セルトレイ

苗を自分で作る!
今自宅でひっそりと育てています。
苗や球根を買うより種を買った方が安いのでちょっと頑張ってみます。
これ全部が育ったらそれはそれで大変ですが、まあそん時はそん時だ!

数年前に種からやったことはあるんですけどうまく育たなかったので、
今年は何とか育ってほしいですね。
そして私は苗や球根を買いたい衝動を抑えられるのか・・・
もし春になってこの鉢にチューリップが咲いてたら、
「あ・・・買っちゃったんだな・・・」と嘲笑ってください。
診療時間

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